名工・左甚五郎が作ったネズミが・・落語に見る甚五郎の名人芸
左甚五郎と言えば、日光東照宮東照宮の「眠り猫」「鳴き龍」で日本一と言われた名工。
その甚五郎がフラリと旅に出て、ある宿場町にやってきた。
「おじさん、宿はまだ決まってないの」
声をかけられ、見ると子どもの客引きだ。子どもは自分の宿に泊まってくれと、一所懸命に頼む。
案内された旅籠は予想通りボロボロで、客もいない。向かいの立派で満員の旅籠とは好対照。
何か訳がありそうなので、尋ねると、実はこちらが本家だったのだが、おとっつあんがケガをしたとき、番頭に身代を乗っ取られ、物置同然の別棟におとっつあんともども追い出された。ついでにおっかさんも乗っ取られた、ということだった。
木彫りのネズミ
しばし考えた甚五郎はノミを取り出して、コツコツと彫り始めた。やがてできあがったのが一体のみごとなネズミの彫刻。
「これを入り口に置いてごらん」
これをたらいに入れて、上に竹あみをかぶせて店先に置くいてしばらくすると、何と木彫りのネズミがチョロチョロと動き出した。これを通りがかりの人が見かけて、びっくりしたのは言うまでもない。
名前を聞くと「左甚五郎」と名乗った。あっと言う間に評判が立ち、「甚五郎の福ネズミ」と大評判になって、遠くからも多くの客が泊まりに来るようになり大繁盛。
逆転の来客
一方、向かいの旅籠は閑古鳥が巣を作るほど暇になる。主人の非道な仕打ちも知られてしまい、客足がばったり。
もと番頭は、ため込んだ資金に物を言わせて反撃に出た。仙台の高名な彫刻家に「甚五郎に負けない彫刻を」と製作を依頼。向こうがネズミで繁盛するなら、こっちはトラだ」とトラの彫り物を作ってもらい、ネズミをぐっとにらむように置いた。
すると、それまで元気に走り回っていたネズミが、その途端にピタリと動かなくなった。
甚五郎の一言
この話を伝え聞いた甚五郎、旅籠に取って返すとネズミの像に向かって
「これ、ネズミ。わしはお前を彫るときに魂を打ち込んで彫ったつもりじゃ。なのになぜただの彫り物になる。それほどのできばえとは思えぬトラなのに」
これを聞いたネズミ、
「えっ、あれはトラですか。私はてっきり猫だと思いました。
(参考:「古典落語100席」立川志の輔 PHP文庫、
「はじめての落語101」講談社 高田文夫監修)
追記
名工・左甚五郎のモデル、岸上一族の一人である初代・岸上甚五郎左義信は永正元年(1504年)に誕生し、66歳で没したとされている。
16歳の時に多武峯十三塔その他を建立し、その時の天下人に「見事である。昔より右に出る者はいない。」「それでは甚五郎は左である。」「左を号すべし。」と言わしめた。そのお達しにより、位(号)として“左”を名乗ったといわれている。
(ウイキペディア より抜粋)